2024年7月14日
kakaricyo-oyajiさん、おじゃみさん、tamagoro58さん、会長さん、いつもスターをありがとうございます。
昨日、資産運用EXPOの帰りの事です。
資産運用EXPOの帰り、心地よい疲れを感じながら電車に揺られていました。終点での乗り換えの時、ふと目に留まったのは、先に降りた若い女性が忘れていった日傘でした。その瞬間、私はどうすべきか迷いました。「届けるべきか、それとも駅員さんに言うべきか、黙って見過ごすべきか」。
今の時代、年配の男性が若い女性に近づくこと自体が誤解されるリスクを伴います。「もし私が声をかけたら、女性はどう思うだろうか?不審者と思われたらどうしよう。」「ただの親切心が、逆に迷惑になったり、ハラスメントと受け取られたら困る。」そんな思いが頭をよぎります。
どうしようかと迷っている間にも、女性の姿はどんどん遠ざかっていきます。このまま見過ごすのは簡単ですが、「義を見て為ざるは勇無きなり」です。そういう風に育てられましたし、生きてきたつもりです。
日傘を左手に持ち、若い女性を目掛けて速足で追いかけましたが、女性はイヤホンをしていて、声をかけるのは難しそうでした。それに私の声は小さく活舌が悪いので、気付いてもらえない可能性が大。そこで、私は少し工夫をすることにしました。さらに急ぎ足で女性を追い抜き、その後振り向いて日傘をフリフリして女性の注意を引く作戦に出ました。彼女に追いつこうと頑張りました。歩行速度が若い人は早いですね。
やっとの思いで女性の前方に回り込み、振り向き、日傘を振ったら、彼女は驚いた表情で立ち止まり、日傘に気づいてくれました。その瞬間、安堵しました。
若い女性は笑顔で「ありがとうございます」と言って日傘を受け取りました。その笑顔に、私の疲れも吹き飛びました。もしもこれが平日のラッシュ時だったなら、こんなにスムーズにはいかなかったでしょう。人の波に押されて、女性に追いつくことも難しかったはずです。人をかき分け、追い抜くなんて無理です。
現代社会では、ちょっとした善意も誤解されかねない厳しい環境です。私たちがなぜこんなにも気を使わなければならないのでしょうか?昔はもっと自然に声をかけ、あるいは、後ろから肩をポンポンして気づいてもらう等で、親切にすることができたはずです。しかし、今では一つ一つの行動に慎重にならざるを得ません。それは過去の男性たちの悪行の報いかもしれませんが、それでもなお、この生きづらさは疑問だし、負担にに感じます。
善意を持って行動することが、誤解やトラブルを招く可能性があるというのは、本当に悩ましい現実です。いつか「善人証明書アプリ」なんてものができたら、もっと堂々と善行を行えるかもしれませんね。そんな未来を夢見ながら、昨日の出来事をブログに書いてみました。(ChatGPTの脚色もあります)
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