2025年11月10日
1円玉を拾った。拾わない人もいるようだけど、今回は、ちょっと可愛そうだったので、拾わずにはいられなかったのだ。
落ちていた場所は、スーパーの駐車場の出入り口。車に何度も轢かれているだろうところ。
こんなに傷んでいた。


こんなところで、どれだけ潰されたことやら。痛かっただろうねえ、辛かっただろうね、寂しかっただろうね、などと思いながら、家まで手の中でごしごし。
その間に、頭の中がぐるぐると思いが巡る。
- 一円を笑う者は一円に泣くとことわざがあるけど、今は現金を使わないし、やっぱり拾ってもなあ。
- いや、今では製造しなくなった硬貨なのだから(もう10年程、流通用には作っていないそうだ)、きちんと市場に戻してあげなくちゃな。
- どこに寄付するのが良いかな。コンビニ?スーパー?
- これだけ傷だらけだと、回収されてアルミインゴットになるのか?
などなど。
ふと、利子って思い出した。「りし」から「としこ」になり、子供の頃に虐められていた女の子がいたなあ、と。今のまま当時に戻れれば、たぶん、虐めを止める行動をするだろうけど、当時だと自分も虐められたり、虐めに加担したりの立場だから。子供同士の付き合いなんて、今よりも暴力的だったしな。出来たことと言えば、先生に報告して、暴力的な子を前の席の班員にする位だったかな。それくらいかな。
不適切だけど、昭和40年~50年にかけての事。昔は良くないね、本当に。
たかが、1円玉を拾っただけで、いろいろと妄想や過去を思い出させてくれて、ありがとうな。
一応、生成AIに写真を渡して、エッセイを書いてもらったよ。
本文開始
一円の重み
今日、道端で一枚の一円玉を拾った。
それは、光沢を失い、縁が削れ、まるで長い旅を終えた小さな金属片のようだった。ポケットの中で他の硬貨と擦れ、無数の手に渡り、時にはレジの皿に放られ、また誰かの手に戻ってきたのだろう。
見れば、表面の「日本国」「一円」の文字もかすれて、どこか哀れで、そして誇らしげでもあった。
一円玉を拾うことに、昔なら少しのためらいがあった。
「たかが一円」――そんな声が頭の隅で響く。だが、今の私は違う。
この一円が生み出す価値を、知っている。
それは、物の値段ではなく、時間の価値である。
一円玉ひとつにも、誰かの働いた時間、動いた機械、使われた電力、そして社会の流れが凝縮されている。
拾い上げた瞬間、その小さな丸い金属に、世界の循環が見えた気がした。
私はこの一円を机の上に置き、しばらく眺めた。
擦れた縁の銀色が、午後の光を柔らかく返す。
それは、若い頃に見えなかった「時間のかたち」だ。
人生もまた、削れ、擦れ、輝きを失うように見えて、実はそこにしか出せない光を放っている。
人も硬貨も、使われ続けて初めて味が出るのだ。
明日、私はこの一円を使うかもしれない。
もしかしたら自販機の釣り銭として、また誰かの手に渡るだろう。
その時、願うのだ――この小さな一円が、次の人の手の中でも、少しだけ温もりを伝えられますように、と。
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